僕自身がこの映画を最初に観たのはいつだ、と言われると、正直よく覚えていない。観ただろう、観たんじゃないかな、たぶん観たと思う、まちょっと覚悟はしておけ、ぐらいに曖昧だ。
なので、AmazonでDVDを購入して観てみた。
確かに観たことはある表現がいろんなところにあるが、だいぶおぼろげにしか覚えていなかった。そして今見ても面白いよ、この映画。
まぁ覚えていなかった理由の9割は「よく意味がわかんないから」なのだけど。意味が良く分かる今観ると、非常に面白い。
っていうかさ、たとえばSF的なアイテムに対しての説明とか一切ないんだよね、この映画。熱光学迷彩はガラスのように透明になる迷彩服、という設定のSFアイテムなのだが、このアイテムに水がかかると屈折率が変わって隠れられなくなっちゃう、みたいなさ、そういう弱点設定もあるわけ。でもそれが説明ないのさ。予備知識を溜め込んで観ないと理解できないって。
結果的に僕も観たかどうか忘れちゃってるわけだしね。良く分からなかったせいで、ストーリーもぜんぜん頭に入ってなかった。
で、まぁ今になって観た感想などを書いてみる。
攻殻機動隊のメインテーマ(それはStand Alone Complexなどにも引き継がれる)は、“ゴーストとは何か”である。
といってもニューヨーク13番街の奇跡ではない。ウーピー・ゴールドバーグも出てこない。
この世界でのゴーストとは、それはすなわち「魂」とでも意訳されよう。人工知能、AIに人格プログラムが組み込まれたら、それはゴーストなのか? 記憶を電子的に保存、コピーできるこの世で、脳をコピーしたらそれはゴーストなのか? NOなのである。ゴーストはアイデンティティー。存在理由、存在意義、そこにいる証明とでも言おうか。主人公の草薙素子が劇中で「ひょっとしたら自分はコピーされた存在なのではないか」と言っているが、この世界は自分に魂(ゴースト)があるかどうかすら疑わしい。この世界で自我を保って生きていくのは、
難しかろうなぁ。
そんなゴーストに関わる事件が数年前、天才的ハッカー「人形使い」によっておきる。人形使いはなんやかんやで人の電脳をハックしたり、時にはそのまま人を死に至らしめたりと、まぁ問題のある人物である。そのため公安9課によって追われることとなる。
なんやかんやあって人形使いの納まったボディーを9課が回収することに成功。押井守お得意の内輪もめ(公安9課と6課の縄張り争い)をはさみつつ、問題は核心に迫る。
人形使いは、人ではなくAIであるとわかる。しかし同時にゴーストを持つ1人格であると自ら宣言する。人格として亡命を要求する。
生命は母なる海から生まれた。「私は、電脳の海から生まれたのだ」と人形使いは言う。ただのAIであるはずの人形使いがゴーストを持つことなど有り得るのか。そんなことは有り得ない、と否定することはできる。僕も映画を観ながらそう思った。「AIにゴーストなど有り得ない」と。そして、こういった「人工頭脳が人格を持ったとき、それは人ということではないのか?」という話は、古典的なSF的テーマである。陳腐化していると言っても過言ではない程に幾たびもテーマとして利用されてきた。
しかし考えが「ゴーストとは何か(何によって定義されるのか)」というところまで至ると、もう答えは闇の中だ。ゴースト、人格、アイデンティティー、生命の定義というのは実に曖昧なのだと自覚した。自我の芽生え、すなわちそれをゴーストと定義してしまうならば、AIも1人格であると認めることとなる。実際にはAIよりも単純な思考回路を持つ人間だっている。
本来であれば「人間として生を受けたもの=ゴースト」である。人のもっとも根底部分、欲望や感情、カンや理性がすなわちゴーストであると。
では、AIによって電脳をハックされた場合は? 人間としての個性や知覚のすべてを支配しているのは、ハックした側である。電脳をハックされた場合は、AIに支配されたゴースト、と言えるだろう。しかしそれは「AIによるゴーストの発露」ではない。自ら生まれ出でてきたものでない。
AIは所詮コンピュータ上を動作するプログラムである。それが仕様どおりの動作をしない(たとえば自己犠牲による、不特定多数に対する救済など)場合、それはバグである。感傷的に「ゴーストが生まれているのかも」と考えることはできる。しかし、結局のところ、ゴーストというのは「人間であること」そのものでしかないのだ。
2019/01/30 追記
- ほし: ★★★★★ (5/5)
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